理想的エロゲ論・システム編

 以前、http://d.hatena.ne.jp/tokyolover/20090516にて、キャラクタ編での理想的エロゲ論を論じた。
 この理想的エロゲ論に非常に近い形で発売された作品がある。77〜And, two stars meet again〜である。この作品は、キャラの数が10人と多く、それぞれのキャラクタが「知の塔」「力の塔」「運命の塔」などとカテゴライズされており、いくつかの魅力あるキャラクタが並列して存在しているといえる。そこまで評価は良くないゲームなのだが、キャラクタの立て方という点においては、私は100点をあげたいと思うくらいの出来である。シナリオが悪かったのだ、シナリオが。つまりライターの所為である。
 しかし一方で、この作品が凡作に終わった原因をシナリオだけに見出すのはあまりにも早計である。故に今回は、理想的エロゲ論・システム編として、キャラやシナリオとはいったん切り離した「支持されるエロゲ」について考えてみる。
 キャラクタ編と同じように、既存のエロゲを大別すると、おそらくは二つの系統になるだろう。
 まず最初に挙げられるのは、サウンドノベルに端を発し、YU-NOで完成されたといわれる純粋なADVである。選択肢を選ぶことによってシナリオが変化し、エンディングまでにいくつかの道のりがある作品である。サウンドノベルから始まっていることからも読み取れるように、この手の作品はシナリオを「読ませる」ことに重点を置いている。いわゆる萌えゲーや抜きゲーもこの亜種として分類されるだろう。これらの作品の特徴としては、ライタの力量に重点が置かれることが多い、最悪絵や声優だけでもなんとかなることがある、おそらくは開発が比較的容易である、といったことがあげられる。開発費や安定性などの面から見ても、たいていのエロゲがこちらに分類される。
 次に挙げられるのは、ランスやうたわれるもの聖なるかなといったゲーム性が強調された作品である。これらのゲームの特徴として、死ぬほど時間がかかるものが多い、ゲームにのめりこみ易い、開発が大変そう、ゲーム内容が面白ければシナリオが重視されない傾向にある、といったことが挙げられる。
 前者は万人向けであるが、後者は人を選ぶように見受けられる。ということは、やはり前者を選ぶべきなのだろうか?ここは悩みどころだ。
 さあ、もう一度アイドルマスターを参考にしようではないか。何故アイドルマスターは何度もプレイされるのか?こんなに息の長いキャラゲーがいまだかつてあっただろうか。その理由は、きっとキャラの良さだけではないのだ。では何か。
 それは、「繰り返して遊ぶことができる」ということ、「お気に入りのキャラクタで何らかのゲーム性を実現している」といことである。よく考えて欲しい。滅茶苦茶面白い本があっても、それが長ければ長いほど、人は繰り返して読んだりしないものだ。例外としてマンガは何度も読み返すことがある。しかしあれは、マンガというイメージ性の強い媒体が持つ、「どこからでも読み始めることができる」という特徴に根付くものであると私は考えている。エロゲは途中から読みはじめたりすることはできない。いつも最初から見ないといけないのだ。セーブデータがあれば別だが、それは本に栞を挟んでいるようなもので、マンガのように気が向いたらぱらぱら読み始めるといった点とは趣を異にする。結論として、純粋なADVでは限界があるのだ。
 アイドルマスターはこの点をきちんとクリアしている。最初から遊んでも楽しいのだ。つまり、キャラクタが何人かおり、それらがある種のグループを形成しており、そして繰り返してゲーム的に遊べる。それが理想なエロゲのひとつではないのだろうか?
 そこまで考えたとき、私はあるひとつのゲームに思い至った。サモンナイトというゲームである。このゲームも死ぬほど登場人物がたくさん出てきて、彼らを引き連れて世界を壊して回るというものである。あのゲームをプレイした私は思ったものだ。どうしてエロシーンがないのかと。
 結果的に、後者のジャンルのゲームが理想的なエロゲであるという結論に至ったわけであるが、確かにランスは名作扱いされている。しかし一方で、これほどプレイヤを選ぶ作品もそうない。この点を克服しなければ、理想的なエロゲである、などということはできないだろう。
 私はエロゲスレに潜伏しつつ、どうしてゲーム性のあるエロゲは回避されることが多いのか、という点について調査していく予定である。