内面と外面

人間は顔で選んじゃいけないって言うよね。
あれって、一体なんでだろう?
顔だけで選んじゃいけない、なら分かる。でも、なんだかよく分からないけれど、顔を―たとえば、恋人を選ぶときとかの―参考基準にすると、なんだか、その選んでる人が低俗であるかのように見る風潮がある。自分をインテリジェンスだと思ってるやつにほどその傾向は顕著だ。むしろ逆の場合すらある。そう考えている人間のことをインテリジェンスだと感じたりね。


性格とか、賢さとか、そういったものは、与えられたものではない、と信じたいからだと思う。
「性格がいいとか賢いとか、そういったもの」を、仮に内面と定義しよう。顔は相対的に外面となるわけだけれど、内面と外面の差は、すぐ目に見えるかどうかという違いしかない。
内面を重視する人は、一体内面が何処から来るものだと思っているのだろうか。
例えば、その人個人が最初から持っていた、いわゆる才能であると思っているのだろうか?だが、最初から持っている、という点においては外面も同等であるといえる。これでは外面と内面を区別した意味がない。最初から持っていたものだと考えてない、ということだ。
キーワードは、多分「努力」だと思う。既出の「才能」を除外した場合、人間を評価する上でのプロパティとされるものはこれしか残っていない。
では、その努力といったものは何処から出てきているのだろうか?向上心?虚栄心?それとも、努力出来るという人間そのものが「才能」?最後のが除外できることは明白だ。それなら外面とやはり区別は出来なくなる。
ってことは、向上心とか虚栄心とか、そういった「動機」が評価されているのだろうか?いや、そうでもない。おそらく、動機を行動にうつすための回路の正確性、あるいは機能性や持続性が評価されているのだろう。ここまではたぶんオーケーだ。
じゃあ一体、それらは何処から来ているのかな?先天的なもの、は今回の議論では除外される。どうしてかって、主題は「外面と内面の違い」であって、外面こそが先天的なもの、しかも目に見えるなんていう代表の中の代表だからだ。日本サッカー=中田英寿みたいな感じだね。
先天的じゃないってなんだろう?
それは環境だ。家族とか、土地とか、国とか、種族とか、そういったものが本人とは無関係に推移していて、その結果としての内面を評価しているのに違いない。そうじゃないと道理に合わないじゃないか。始めから持ってたものはだめなんだろう?つまるところ、本人の「環境」を評価しているのだ。なるほど、確かにこれは唯一無比の財産だろう。
でもそれって、本人を評価してるわけじゃない。はっつけられたものを評価しているのに過ぎない。そんなものを評価するくらいなら、まだ最初からその人間がもっていたものを評価するほうがいいと俺は思うんだけどな。いや違うな。きっと同じことなんだ。そもそも、「個人」を何処までに設定するのかの違いしかない。たいていのやつらは環境ってやつまで考慮しちまうんだろう。広けりゃ広いほどいって考えだ。到底理解できないね。
どっちにしたって与えられたものなのさ。物心をはっつけられて、自分自身で動いてるって言う幻想を見せられてるときから、俺たちは与えられていない何か、自分で成長させた何かを見つけようと必死なんだ。
自分で何かを起こそうとするその発想自体が、過去の自分によって形成されている。過去がなければ今はなく、過去からの逸脱なんて不可能なんだから、結局その行為自体も与えられたものにしか過ぎないんだけれど、それには気づかない。いや、気づきたくないんだ。


そんな不安が、人間を内面へと向けさせる。外面は端的過ぎて、そして明白過ぎる。何より最初から見えてしまっている。それじゃあ不安なんだ。だから少しでも変化しているように見えるものに目を向けようとする。
人間は顔じゃない、中身だ。なんていう考えは、きっとそんな不安からの逃避だろう。一体何が怖いんだろう。俺には、自分が最初から何かを自分で決めたっていう自覚がないままにそんな考え方をするほうが、よっぽど怖い。