何故専門学校でお勉強をしているのかというと、例えばkondoの言い分を例に挙げれば、「将来その手の仕事についたとき、その分野に少しでもとっつきやすくなるように」である。
この考え方はあながち間違えていないと思う。これは前提条件だ。
その条件のもとで導ける結論、つまり卒業時に、その学校の試験をすべてパスした人間に求められることとは、「その手の仕事に付いたときに少しでもとっつき安い状態にあること」であることは明白である。
次に考えたいのは、解法が自分の脳内にある場合と外側、つまり書物の中にある場合それぞれにおいて、ある特定分野の問題を解決するときに生じる違いについて。この場合は、「読み出してくる時間」に差が出る。当然主記憶(脳)にファイル(解法)があるほうが、書物(補助、または外部記憶)においてあるよりも遥かに速く持ってこれるだろう。
問題は、外部記憶つまり書物等においてある情報は、まさしくコンピュータにおける外部記憶よろしく半永久的に老朽化または劣化することはないのであるが、主記憶つまり脳内にある情報は、時間とともに信頼性・情報量ともに低下していくというものである。
この問題を前述の考え方に適応してみると、「脳内にある「解法」が時間とともに衰えていくことが明白である状況下で、その仕事にとっつきやすく、つまりはその分野の問題を解決しやすい状態にあること」となる。
ここまで考えれば、脳内においておくべき情報は、「出来るだけ劣化しない形態の、必要最小限」であることが望ましいという結論に達することに不自然はない。なぜならば、英単語等の暗記をしてみれば自明なのであるが、記憶しておく情報量の多さに比例して、失われていく情報の量も増えていくからである。よって、余分な知識によってその「必要最低限」の記憶が不当に多く消えることは回避すべき事態であるから、「必要最低限の知識だけ脳内に保存しておくことが望ましい」という考え方は正しいと言える。
脳内にある情報が劣化していくことは明白であるので、社会に出たときになんらかの問題に直面した際、外部記憶に頼ってその問題に当たらねばならないこともまた明白である。
その際、必要な能力こそが、最初に述べた「お勉強する目的」である。ではそれはいったい何なのか。
ここにこそ、脳を主記憶、書物を外部記憶と単純に置いた場合との違いである。本に書いてあることをそのまま脳に持ってきても、なんのことやら分からんのだ。つまり、言うなれば形式が違うから困るのだ。理解が出来ない。これはヒゲでいうキーセンテンスである。そして、書物に書いてあることを理解さえ出来るのであれば、そもそも脳に解法を置いておく必要はないのである。何故ならば脳においてあるのは信頼性も情報量も劣化している様な情報であり、そんな情報に頼るくらいならば少々時間がかかろうが、外部記憶から持ってきてそれを使って解けばいいのである。「そんな時間ねえよ」と言う人もいるかもしれないが、専攻のせの字も知らん様な人間にそのような事を求めるのは大きな誤りである。街停を馬謖に任せるようなものである。少なくともうちの学校はそんな専門の人間を育てる様な学校ではないのである。広く浅く。そんな勉強の仕方をしている。
ここまでくれば自明であろう。学校を卒業時、すべての試験をパスした人間に求められる能力は、「外部記憶→主記憶」への変換能力である。つまりは、書物を与えられた状態でどれだけ速く正確に問題を解決できるのか、という能力である。記憶力ではないのだ。
記憶力を問う試験形式が不要だと言っているのではない。だがそれでは何の力もはかれない。ただただ、その人間がいかに社会に対して従順であるか、従順になれるかを問うているだけである。その手の試験は入学試験だけでいい。
だから、学内でのテストは、教科書を持ち込み可にするべきである。ノートは不可だ。ノートは限りなく主記憶装置に近い外部記憶である。kondoのノートなどもってのほかである。分かり安すぎるから。


私はそう思って、情報理論を何の勉強もしていないごめんUedaちゃんうええええええええええええええええええええええええええええええん;;;;;